宗心茶話 堀内宗心 高橋睦郎

まだお茶を始めたばかりぐらいのときにも読んだことあると思うのですが、内容をすっかり忘れていたので再読。前回読んだ時よりも感じることが多くて、再読してよかったと思いました。

一番強いメッセージとして受け取ったのは、自分自身のあるべき姿を自分で決める、ということです。

自分は見えなくて他の人は見えるから、自分のことは棚に上げて、あの人はあそこが悪いここが悪い(だから好きじゃない→だから自分は仲良くしない)と言いたくなったりしてしまいますが、フォーカスするべきは他人の行動ではなく、自分の行動だなー(誰かが悪いことをしているからといって、自分も悪いことをしてよいとか、悪いことをしている人に報復してよいとか、自分が悪いことをする理由を外に見つけるべきじゃない)と感じ、反省もしたし、囚われている心から救われるような気もしました。

 

茶道のことについても発見がたくさんあったので、気になったところを以下にメモします。

 

◆器 如月

・手あぶりは正客だけに出す

・「埴ヲ挺メテ器ヲ為ル、其ノ無ニ当ッテ器ノ用有リ」『老子

<茶碗について>

・茶碗は飲むための道具であると同時に点てるための道具でもあるので、ある程度のサイズが必要

・お茶は亭主が点ててくれたものを、両手で受け取って体全体で飲む。老子に準じて言うなら、茶碗という無の器の中に心をこめて作っていただいた世界を全身で頂戴するのだから、両手でいただくにふさわしい大きさ、重さというものが必要(なのかな?)

・点てやすく、飲みやすい、見た目も美しい茶碗はもちろん良いが、そうでなければ悪いということではなく、飲みにくい茶碗でも飲んだ時味わいがある、という場合もある。

・日本文化の特徴として完全なものより、不完全なものが好まれる。

・広い意味では茶室も器と言える。書院のお茶が完全なものとするなら、草庵のお茶は不完全なものを求めたといえるかも。

・草庵化の完成には、太閤さんの影響が大きいと宗心宗匠は考えられている。太閤さんが天下をとるまでは、草庵と言っても四畳半が基本だが、天下をとった天正のころから、山崎妙喜庵(二畳敷)、大坂城山里丸(二畳敷)が登場する。天正15年(1587年)博多筥崎三畳敷数寄屋は掘立小屋みたいなもので、野の子から天下人になった秀吉の面目躍如といえるのでは

 

◆人 弥生

・お茶の三原則

①お茶の道具は茶碗でも茶入れでも一つで足りるものは一種にすること

②お茶は人同士の社会の煮詰まったものだから礼儀を正しくすること

③お茶に関わるものが自らを反省してあるべき姿を自ら築いていくこと

3つのうち基本になるのは③

・お茶の基本は禅的平等感

人間社会の現実は全て差別でできている(知能、健康などもともと平等ということはない)が、飲んだり食べたりしないといけない存在だという基本的なところは平等。

差別の世界で生きている人間は役者みたいなもので、舞台の上ではその役その役を演じているけど、舞台を降りたら同じ人間という意味で平等。(お稽古の本にも同じような記述あり)

 

◆花 卯月

・お茶の花入れには何もとめるところがないので、枝の下端を花入れの向こうの側面にあてて、花を前に倒すだけでしかない。それで枝の下端の先が乱れているとぐらぐら崩れるので、きちっと切りそろえる必要がある。その場で一息に入れたらたいてい止まるけど、直したりするとかえって崩れる。

 

◆風 皐月

・風通しというのが風炉の季節の一番ごちそう。炉のときは終始閉め切ってするが、風炉になるとはじめはきちっと閉めるけど、蒸してくるとすっと開けてもらう。それで入ってくる風がごちそう。茶事のとき始まる前に少し風を通しておく。障子がたっていれば閉めておくのが決まりだから、始まるときは全て閉める。席中であけるときはあるけど、その際、客が勝手にあけてはならず、亭主から声をかける。途中また暑くなったら、別のところを開けてもらう。

・草庵の茶になる前の書院の茶の時代は、一年を通して風炉であったように、香もみんな香木だった。

 

◆水 水無月

・もともと京都盆地というのは、太古は湖水だった。その水が徐々に盆地の外に流れ出して、すこしづつ干上がって平地になった。その名残の巨椋池というのが昭和10年代までは盆地の中心にあった。京都盆地のすべての水系が流れ込んでいたが、昭和9年から8年えて干拓され、新田になった。

・北山から堀川すぎくらいの水脈がよい。堀川通にお茶の家が集中しているのも、水との関係

・水は沸かすと、水の分子を取り巻いている有効成分が沈殿して、活性が少なくなる(やせる)。釜に水を差す理由は、量を保つだけでなく、質を保つ理由もある。

→紅茶でも沸かしなおしたお湯を使っちゃいけないというのは、同じ理由か

・お茶を点てることを離れても、水の用途は多い。風炉の時期は庭でも露地でも、水をいっぱい、にわか雨の後ぐらいにまけという。

 

◆食 文月

・お茶事に懐石が含まれたのは、炭点前を見せるようになって、釜が煮えるまでの時間が生じたため、その間に何かちょっと軽い食事をということ。

禅宗の本来の食事は膳ではなく、持鉢を使うがお客の場合は膳を出す。お寺のお膳というのは、給仕盆、通い盆を膳に見立てたもの。

・お茶の料理はお客に向かってよろしかったらどうぞ、という亭主の気持ちなので、出されたものを全部食べて褒めないといけないというのは間違い。食べきれない分は返しても失礼に当たらない。

・秀吉の弟の秀長の会記に葉の掻敷、イワシ汁かけめしというのがあり、納会はこれをまねたもの?

 

◆音 葉月

・朝茶は夏の朝の清爽な気分を味わうのが眼目なので、七月から8月のかかり、立秋ぐらいまでにする(だんだん朝が暗くなるので早く集まれなくなる)

・和敬清寂の寂は真理と自分が一体になった時のしずけさ。風や水の音や、釜の煮える音があるためにかえって寂けさを感じる。

・釜の煮え音以外にも、座掃の音や、手水を改める音など、鑑賞(合図を受け心構え)する音はいろいろある。

 

◆茶 神無月

・茶壷の底に残った茶を惜しむように使う。(風炉を名残惜しむと勘違いしてた!)現代ではお茶を必要な時に茶師に頼むので、新茶が混ざってきてしまうので厳密にはちがうけど、名残の茶事は性格上侘びたものなので、茶室の障子が多少黒くなっていても張替えはしないとか、やぶれていても切り貼りで済ますとか、焼き物に通常青竹をつかうところ、白竹でいく。向付も同じものをそろえて出さず、わざと不揃いな寄せ向にする。お茶碗も繕いがあっても名残では使える。

・わび茶の三原則(再度でてきた)

①道具は一種で羅列をしない

②礼儀を正しくする

③客を選ぶ、つまり茶人は茶人としての自覚を持つべき

これはそのまま日常の生き方に通じる。日常生活のことを喩えて喫茶喫飯というように、お茶は日常であり、人生。お茶がわかり人生がわかる人のことを「あの人はお茶がある」というが、行き過ぎると「お茶くさい」とか「茶渋がついた」ということになる。お茶がありすぎるとかえってお茶がないことになりかねない。

・お茶の決まりはきちっとしなければいけないが、やりすぎると本来の目的からはずれる。突き抜けたところには遊びというか、自由さがほしい。お茶は遊芸という考えがあるが、芸の関係者はお茶人よりもっと厳しい修行をしている。お茶は修行中は厳しくしないといけないが、実際のときはいわゆる数寄者風に崩したほうがいいと思う。

 

◆火 霜月

 ・夜咄、蝋燭ができる前は油火だけだった。今でも油火が主で蝋燭は補助。

 

◆時 師走

・蝋燭は歴史的に新しいから、昔は行灯だった。本当は行灯の方が感じが良い。手燭は光が強くて、目の中に入れると真っ暗になる。手燭は持っている人より、遠くから眺める方が感じが良い。

・禅でもお茶でも時間についてはうるさく言う。時間や空間を超えることが究極としたら、時間や空間を守り、よく知ったうえで、時間や空間から解放される

 

●茶事

・賓主互換(亭主も客もない、まったく同体である)、一座建立

●稽古

・できることでも毎日毎日繰り返して、積み重ねるのが稽古。習得したことでも繰り返さないといけない

・柄杓でお湯をくむとき、自分が柄杓を動かすのではなく、柄杓にお湯を運んでもらう、茶碗が自分で動いてくれるように扱うというか、扱われるというような意識。

→禅茶録「器の善悪を択ばず、点する折の容態を論ぜず、ただ茶器を扱う三昧に入りて、本性を観ずる修行なり」

●家族のお茶 

近しい者同士が、個と個であると改めて認めたうえで礼をもって接する

●家業と個人

家業があるとそれに付随して四季折々の暮らしやしきたり、習慣を大切にする。行事は多少無理しても継承する。お茶の家元でも経済的な職業としてはお茶を教えるということで成り立つが、先祖を祀ることが仕事。だから家業は世襲制になる。

●お金の意味

茶人は経済的に豊かかどうかにかかわらず、自分自身のお茶に自信をもって、自分の生き方を貫くべき。お茶本来は様々な人を平等に受け入れるもので、経済的なことも同様。茶道具には高価なものもあるが、それがなければお茶ができないということでなはく、そういうことを茶人が自覚して流されない生き方をすることが大切。亭主は常に主導的なもの。自分のお茶はこうであるという自信をもってすること。

●平和論

戦争が絶えない理由は、戦勝国と敗戦国をつくるから。戦勝国は戦敗国から賠償金を取り、戦敗国には恨みが残る。それがまた次の戦争を引き起こす。戦争に限らず、人間は他人を責める前に自分の行為に責任をとらなければいけない。勝っても負けても相手に損害を与えたら、その償いはしないといけない。

 

●あとがき

・喫茶喫飯・睡眠男女

・飢えた人々に強いるのではなく、富める者たちの自覚において実行する。

・他人に強制しないことは、どんな他者も客として受け入れること。

 

以前読んだときは、高橋睦郎さんのおっしゃっていることが、あまりピンとこなかったかなと思いますが、今回はすごく納得して読めました。この方の他の著作も読んでみたい。