海からの贈り物 アン・モロー・リンドバーグ

あけましておめでとうございます!

 

今年の目標は、簡単でも毎日ブログ更新!

ということで、年末に読んだ本の感想を…。

この本、生物学の本かと思っていましたが、哲学的というか、自分を見つめる、どう生きるか、的な内容でした。

私は落合恵子さんの訳で読んだのですが、ネットでいろいろ調べてみたところ、これはフェミニストの落合さんが結構自分の解釈で訳してしまっているのかな…というような記事を読みました。「女は…」みたいなことやけに言うなぁとか、なんか前後の脈絡が唐突?と思った個所があったので、名訳と名高い吉田健一さんの翻訳や、原語でも読んでみたいと思っていて、細かい感想はそれらを読んでから書こうかなと思っています。

一番印象的だった章をざっくりまとめたメモが以下。

<牡蠣のベッド>
愛は一種類ではなく、若い頃のロマンティックな恋愛から、献身的な愛へと少しずつ成長する。
それらの愛を絶えず支えているのは、友愛である。互いに対する寛大さや、助け合い、分かち合った経験も織り込まれた織物のように。
ひので貝のように一つの関節で結ばれた貝合わせの貝の愛から、かきの殻のようにゆるぎない家族の愛へ。

たいていの人は、中年と呼ばれる年代になる前に、社会で自分の椅子を獲得しようとするか、その戦いをやめてしまうかのどちらかである。そうなると、暮らしとか家とか、さまざまな人間関係とか、物質的な豊かさだとか、ため込むことなどへの強い執着は自分や子供たちが活きるために闘っていた時代ほど、必要でなくなるはずである。
からだごとぶつかっていく仕事はもう終わった。成功だったか失敗だったかは今は問うまい。つまり貝も、岩棚に張り付いている必要はなくなったのだ。
中年という時代は、野心の貝や、各種の物質的な蓄積や所有欲の貝、エゴの貝などを捨てるステージなのかもしれない。この年代に達してはじめて私たちは、海辺のシンプルな生活と同じように、虚栄心や間違った野心、仮面や鎧を捨てることができるだろう。
中年はほんとうの意味で自分自身であることができる年代なのかもしれない。
いろいろなものがわたしから抜け落ちていく。わたしには以前おもっていたほど才能がないことも分かった。わたしの力の及ばないことがあることもわかった。
人生の朝に当たる、単純でただ動き回っていた素朴な子供のころのような生き方や、四五十代を控えた、壮年期の活動的な生き方は中年にはもはやできない。しかし、人生の午後はそこから始まるのだ。いままでの速度の速い日々とは違う暮らし。生きる競争のために隅っこに押しやられていた日々。
文化的な、また精神的な活動に自分の時間を割いて過ごすことのできる日々。
中年は第二の開花期、第二の成長期、そして第二の青春。世間一般の価値観は、
人生の午後をそんなふうに積極的に解釈することを阻んでいるようだ。
そのため、当人でさえ悲劇的なものであると考え、四十から五十にかけてのステージを、どうにも乗り越えることができずにいる場合もある。
この時期の、たとえば不満とか焦燥、疑念とか絶望、何かに対するあこがれは第一の青春期の成長の兆候ととても似ているにも関わらず、
世間の価値観ゆえに、退化のサインだと誤解される。
青春のただなかにいたころは、こうした兆候を成長に伴う苦痛であると正しく受け取り、真剣にその内部からの声に耳を傾け、それに導かれて進んだものなのに、
その声にしっかり耳を傾ける代わりに、そこから逃げようとして、精神的に落ち込んだり、酒や恋愛沙汰、実りのない働きすぎに逃げ込む。
これらのしるしは悪魔ではなく、告知天使である。
いままでの闘う日々に伴う苦痛や、世俗的な野心、物質的な欲望などの煩わしいことから解放されて、いままで無視し続けてきた自分の内面を充実させるときがきたのだと。

 

この本を読んで、雅姫さんや、桐島かれんさんの著作に書かれていたことがより深く理解できた気がしました。

 

 >>読んだ本

 

>>読みたい本